準備の本質 – 「伝えるための準備学」から学んだこと

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『伝えるための準備学』という本を読みました。「音速の貴公子」で有名な古舘伊知郎さんが書いた本です。その中で、特に心に残ったいくつかの文章を紹介し、それについて私が感じたことをまとめてみました。

本当のアドリブは存在しない

「本当の意味でアドリブなど1つもない。日々の準備によって、自分の中に沈殿しているものが不意に上がっている来る時がある。それが結果としてアドリブと呼ばれるのだ。」

アドリブというと、その場で即興で思いついた言葉や行動のように思われがちですが、本当に効果的なアドリブは、日々の準備があってこそのものだと感じました。意識的に準備していたことが、無意識に突然表に出てくる。それが真のアドリブであり、準備の重要性を再確認しました。

準備という技術

「涼しい顔をしてかっこつけていたい。煩悩の塊の僕だが、準備という技術が求められている時代なのではないかと思えてきた。」

自分の未熟さや煩悩を認識しながらも、それを克服するための「準備」という技術にフォーカスすることが、非常に重要だと思います。どんなに優れた技術や知識があっても、それを支える準備がなければ、本当に伝えたいことは伝えられません。第一線で活躍されている古舘さんがそうであるならば、素人の私は何を言わんやです。

準備は本番である

「準備は本番である」「良い準備とは、この準備が本番なんだと思って準備することだ」

本番で成功するためには、準備そのものを本番と捉えることが大切です。準備段階でどれだけ真剣に取り組むかが、本番の結果に直結するということを、この本を通じて強く感じました。

準備を練習という言葉に置き換えると理解がしやすいです。確かにスポーツをやっているとよく言われてきました。受験勉強をしていたときにも痛感したことです。本番のつもりで練習をする。とても大事なことです。

非効率性の重要性

「効率的な本番は、非効率的な準備があってこそ成立し、つまり準備の非効率性が本番の効率性を支えているのだ。準備段階から効率性を求めすぎると、本番の効率性は叶いづらくなる。」

準備を効率的に進めることばかりに囚われるのではなく、非効率的な過程も含めて準備であると考えることが重要です。失敗を恐れず、時には無駄に思えることにも挑戦することで、本番での真の効率性が生まれるのだと思います。

ついつい効率を求めてしまいます。特に私の場合はその傾向が強いです。寄り道をするゆとりをもって取り組むくらいがちょうど良いのかもしれません。

捨てることの価値

「捨てるなら最初からいらないではない。最終的に捨てることになっても、まずはしっかり用意準備すること用意していないと捨てるものも捨てられないのだ。」

準備の過程で捨てることが出てくることは、決して無駄ではありません。むしろ、しっかりと準備をしたからこそ、不要なものを見極めて捨てることができるのです。捨てる勇気も、準備の一部と言えるでしょう。

多作多捨。逆に言うと、捨てるものがないという状況は、準備不足であるということを表しているのかもしれません。

準備の奴隷からの脱却

「本番では、準備したことすらも、頭の隅に追いやる。頭を余白だらけにする。それでこそ準備の奴隷を抜け出し、ようやくその場の空気を読みながら、相手にしっかり伝わるプレゼンができる。」

最終的には、準備したことに縛られず、本番での自由な発想や対応力を持つことが大切です。準備をしっかりと行った上で、その場の状況に応じた柔軟な対応ができるようになることが、本当の意味での成功につながるのだと思います。

ただ、これを実際にやるのはとても難しい。

人生でこんな境地に達することができたのは数えるほどしかありません。その時はもうしばらく準備なんてしたくなくなるほど準備をした記憶があります。

やっぱりそれくらいやらないとダメなんだってことですね。その上で、なおかつそれを継続していかないといけないんですね。