保育園に通う娘の保育参観で感じたこと

拡声器

保育園に通う娘の保育参観に行きました。

時間は1時間弱。

ふだんのお歌や数字の勉強に加え、絵の具を使ったデカルコマニー。

MEMO
デカルコマニーは、絵の具をぬりつけた紙を半分に折り、ぬりつけた絵の具を転写させる方法のこと

 

保育園に行くと、親子の顔がそっくりだという当たり前の事実にいつも感心してしまいます。

知らない子であっても誰がパパやママなのかは簡単に見分けることができます。

恐るべし遺伝。


これまでできなかったことができるようになっている我が子の姿を見るのは純粋にうれしいものです。

娘が家とちがったよそ行きの顔をしているのをみるのも新鮮です。

 

保育園の主役は子どもたちです。

そこには子どもたちの社会が存在しています。

友達に会えばあいさつをし、昨日のできごとを語り合っています。

家族の一員としての顔ばかり見ていると、子どもたちの社会が存在しているという事実を実感として受け入れるまでに時間がかかってしまいます。

寂しくもあり、頼もしくもあり。


保育参観に限らず、子どもの行事におけるパパやママの熱狂ぶりには少しついていけないところがあります。

今回の保育参観もそうでした。

デカルコマニーをしている時間、机にかぶさるようにして子どもの写真を撮るパパやママ、授業の存在などお構いなしに動画を撮影するパパやママ、もはやそれは子どもではなくパパやママの作品ではないかというような工作への介入、行事では少なからずこういう光景を目にします。

なんでしょうこのもやもやとした気持ちは??

 

見ていると熱狂的なパパやママは、子どもに対する介入の一歩目が早いような気がします。

子どもが発したSOSに対して手を差し伸べるのではなく、子どもが一生懸命考えているところでサポートに入っているように思います。

少なくとも私には一生懸命考えているように見えるのですが、自分の子どもだと困っているように見えてしまうのかもしれません。

 

推測で他人を批判するのは行儀の良いことではありません。

なので、我が身を振り返る材料としてこのもやもやを大事にしていきたいです。

 

子どもには子どもの人生があり、それぞれの社会の中で生きています。

親としては、その人生を自力で歩んでいけるように自分の頭で考える時間をできるかぎり確保し、本当に困ったときにその苦しい思いをぶつけられるような存在でいたいものです。